ラノベ書きしもの日記

ワナビの日記

読書感想『ラナーク 四巻からなる伝記(アラスター・グレイ)』※ネタバレ

 『哀れなるものたち』の原作者アラスター・グレイの第一長編『ラナーク』を読んだ。本作のネタバレがあるため、未読の方はご注意を。

 グレイは日本における著作の邦訳は哀れなる~以外絶版。本作も絶版で中古価格が定価よりだいぶ高くなっており読むのが難しい状況。哀れなるものたちの映画版が高評価を集める今なら復刊するのにちょうどいいと思うのだけれど。

 

 

 本作は奇妙な都市アンサンクで騒動に巻き込まれる青年ラナークの物語と、現実のイギリスを生きる男ソーの人生の物語が描かれる。前者を幻想小説、後者をリアリズムの手法で描きつつ、さらにそこに別の手法まで取り込まれる実験的構造が面白い。

 タイトルの通り本作は四巻からなる叙事詩なのだが、掲載順は3巻⇒プロローグ⇒1巻⇒休憩⇒2巻⇒4巻と変則的な流れになっている。1・2がラナーク、3・4がソーを主人公としていて、双方とも異なる物語が進みつつ関係性が匂わされる。この構造はなんなんだろうと当然疑問に思って読んでいく。なんとなく、時系列の流れが巻数、主人公の意識の流れが掲載順なのかなと考えたりしていると、4巻の途中で突然差し込まれるエピローグで登場する作者(と名乗る奇術師)が理由を解説し始める。さらには作品の土台になった作品、引用元作品が列挙され、さらにさらにそこへと批評家による指摘が書き添えられる。ページの両端中央には章番号と章題が載るが、章によってはその位置にも小説が書いてあったりする。緻密に積み上げられ、計算ずくの余白もある。これがポストモダンってやつなのか? と思いつつも、作家も批評家(読者)も内在化したあげく作者のセルフインタビュー風あとがき(にみせかけた虚実曖昧なもの)で翻弄する様は、ポストモダンのスタイルでポストモダン文学ごとパロディにしているようにすら思える。とにかく変な本だ。変な本は楽しい。

 2段組み700ページのかなり分厚い本だが、主人公が全く好きになれない造形。ラナークは、作中では愛されるのが苦手とか、大人の皮をかぶった子供とかさんざんな言われようで、作者もそう書いたと言っている。気難しくて、相手の意見を尊重できないが自分の意見が尊重されないと強いストレスを抱え、会話はマウント取りと皮肉まみれ、そんな自分自身にもストレスを抱え将来に不安も抱くが流されやすいので忘れがち。女性蔑視だが異性愛者で、他者とのコミュニケーションが苦手だがセックスはしたい。なので従順で貞淑で絶対に自分を否定しない愛をひたすらくれる女性を求めるがそんな人がいるわけもなく、惹かれた相手を妄想で犯す日々。結果、初めてキスしたときは妄想ほどよくないのでがっかりする。そんな性格なので人生はどんどん悪い方へ流れていく。そしてその人格はソーと彼がいる不思議な世界へ丸ごと継承される。全く好感が持てないのだが、それをこの長い物語で緻密なリアリズムをもって描かれるとその実在感はすさまじい。見知った嫌な奴くらいの実在感でラナークとソーが浮き上がってくる。そしてその人生を追っていくとその悲哀まで見えてくる。この積み上げが面白い。主人公に子供が生まれ、父を搾取するだけだった主人公が父として子に思われる姿なんか、なぜかぐっと来てしまう。

 特にソーの人生を追いかけ、その最期、リアリズムで描かれてきた物語が一気にラナークの待つ幻想へ集約していく際の文章表現の勢いは圧巻。その圧倒的な崩壊の果てに再度、繋がりがゆるいラナークの物語に向かうと幻想が際立つ。何重構造、というより不可能立体的な様相は、文字に翻弄される楽しさがある。

 いかんせん前提知識のない私が果たしてこれをどこまで読めたのか謎だが、でもまあ、楽しんだからいいかと思う。

 

 しかし思うのは、この長さの小説を通読し再読し検証する読者がそれなりにいて、それを理解し評価されると考えて20年かけた作者グレイの精神性のタフさ。自身が膨大な物語を吸収しているがゆえだろうか。生涯の友、もしくは歴史の一部となる本だと思いながらものを書ける人間のタフさとそれに見合う内容の本でもある。繰り返すけれど再版してくれ国書。

 この批評ごと飲み込むような小説をみると、批評という言葉を権威化して忌避しておいてさほど批評家と変わらないことを考察と呼び、日夜SNSでは元ネタ探しに執心する行為を解釈とする現代の創作の受け止め方って、全く成長がないというか、後退しているようにすら思える。