ラノベ書きしもの日記

ワナビの日記

時間、人、言葉、視線 映画感想『瞳をとじて』※ネタバレ

 瞳をとじて、を観たので感想。監督:ビクトル・エリセ、主演:マノロ・ソロ。「ミツバチのささやき」主演だったアナ・トレントも出演

 

 あらすじ:映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオが失踪する。映画は撮影中止になり、監督だったミゲルは映画製作から離れる。フリオの行方も生死もわからないまま22年が経ったある日、ミゲルは未解決事件を追うTV番組の取材を受ける。番組への情報提供を通して当時の関係者と再会したミゲルは、フリオの失踪理由を探していくが何もわからない。しかし番組を見た視聴者から「フリオに似た男を知っている」と連絡が来たことで時間は動き出す。

 

 

 『ミツバチのささやき』世代ではない上に古典まで広く押さえようってシネフィルでもない私にとって、エリセの新作を劇場で観る日が来るとは思わなかった。劇場はかなり席が埋まっており、ミツバチをリアルタイムで観た世代なのだろうか年配の方が多かった。長い映画なのでしんどそうにもぞもぞ動いたり寝たり、飴食ってガサガサ鳴ったり、なんとも言えない空気の劇場だった。

 複層的なコンテクストを積み上げた本作を、一見だけで語るのも無茶だし、こういった作品は膨大な批評がネット上で読めるのだけど、今感じたことを記録したいので感想を書く。

 

 映画ってなんなのよ。という命題に対して、それは時間であり人であり言葉であり視線だ、というあまりにも直球の回答を映像で語る映画。厳かに流れる時間は最初の方は退屈で眠くなるのだけれど、だんだんと描こうとしているものが見えてくると、シンプルな画面に含まれる情報量を追いかけようと夢中になる。長い時間をかけて繰り返されるシンプルな会話は、カメラでアップで撮られる顔ばかり。その会話の中からは、終わってしまった時間の経過とその先にある現在がありありと浮かんでいる。

 会話が多い映画でありながら、何かを説明してくれることはない。しかし会話するしぐさには終わった物事が記憶されている。

 そして膨大な会話と流れる時間の果てに待っているのは、言葉のない映像になる。この構成が力強い。繰り返されたアップの会話とは異なる真っすぐに観客を射抜く視線は、この長い時間を積み上げた映画だからこそ強烈な鋭さを持つ。

 映画はある時間を閉じ込めるが、観客の時間は進んでいる。映画は過去を記録するだけではなく、感情も記録し、同時に現在の観客には現在の感情も揺さぶりにくる。過去を捨てたミゲルが、封印していた過去という映画をもう一度観客の前に出そうとした決意。そしてそれを受けたフリオのあのラストシーンの見事さ。映画も観客を観ているぞ、と書くとホラーっぽいが、人間の長い時間の中に存在する作品ってのは点ではないんだ、というのは創作物に対する誠実なまなざしだと思う。

 老人ホームで二人並んで煙草を吸うシーンと、漆喰を塗るところが美しかったなあ。

 あと映画内映画でレヴィが少女の顔をぬぐうところね。あれは私は、飾らない娘の本質を最期に直視したかったのかななんて思って、全く前後関係のわからない映画のラストなのに感動しちゃったな。