ラノベ書きしもの日記

ワナビの日記

映画感想『アステロイド・シティ』※ネタバレ

 ウェス・アンダーソン監督最新作『アステロイド・シティ』を観ましたので感想を。以下、ネタバレあり。

 

 

 アメリカの砂漠にポツンとある小さな町「アステロイド・シティ」。巨大なクレーターが名所のその町で開催される科学コンテストに集った超秀才の子供たち、彼らの保護者、協賛企業、米軍、科学者たち。コンテストが進む中、あるイベントの最中、思わぬことが起こり……

 という1950年代が舞台の架空の演劇「アステロイド・シティ」と、それを演じる架空の役者や劇作家の舞台裏の両方を追いかける架空のドキュメンタリー、というていの架空のテレビ番組。というかなり入り組んだ設定の物語で、観客は最初からそこで起こることが嘘だとわかっている変わった作り。

 アステロイド・シティはミニチュア・CG・書割と作り物であることをありありと写す、巨大なスタジオセットのような作り物であることを隠さない世界。最初から虚構であることを明確にすることで、ウェス・アンダーソン的色味使いの徹底的に作りこんだ箱庭であることが生きる世界になっている。本当に画面をみているだけで楽しい。

 当然、そこで起こる様々な事柄は作り物だと最初から告げられていて、アステロイド・シティに訪れる戦場カメラマンが負う心の傷も、超秀才で特許を企業と米軍がとりあうような発明ができる子供たちが抱える孤独や傷も、役や観客の評価に悩むモンロー似の役者の傷も、全て俳優が演じている前提で観ることになる。さらに役者も架空であることがわかっているので、役に悩む彼らの苦しみは虚構だ。そして劇作家と主演の同性愛関係であったり、にしては女性と浮名を鳴らしていたり、彼らの出会いから進んだシナリオでは妻を失った男の物語になったり、そんな複雑な背景も虚構だ。

 その徹底的に、そもそも映画は虚構であるにもかかわらず執拗に強調される虚構によって描かれるのは、冒頭のアナウンスの通りしかし観客は現実と重ねてしまう。

 喪失感を抱えながら人は前へ進んで生きるしかないし、俳優も劇作家も本当はなぜキャラクターがそう動いたのかわからなくても、それで演じて舞台に立つしかない。

 絶対にこれは虚構ですよ、と言われても、そう理解していても、むしろ理解しているからこそ、人はそこから現実をすくいあげて感動する。虚構であるアステロイド・シティの登場人物が負っている傷が役者たちも負っているとわかったとき、虚構がいとおしくなる。フィクションを見て楽しむ際に心の中でおこっていることを、意識的に明確に映画の中で起こして、さらにその状況を観客が観るという、不思議な構図だ。虚構という夢を見るために私たちは望んで眠り、そして現実を生きていく(あのセリフは別にそういう意味ではないだろうけれど)。

 キャラが誰も彼も個性的でセリフに気が利いてて、出番が短いキャラも印象に残ってチャーミング。ティルダ・スウィントンの学者とか、主人公一家の三姉妹とか、挑戦を続ける少年とか、宇宙人とか、とにかくかわいい。いろいろなシーンで起こることの寓意を探したりするのもいいけれど、ただ起きることとその画面を見ているだけで楽しい。しかも名優揃いという贅沢な映画だった。公開規模が小さいのがもったいない。

 アステロイド・シティはそのまま地球の縮図で、そこでおこる諸々はそのメタファーなんだろうけれど、しかしあの劇って舞台で観てもあんまりおもしろくはなさそうだったな。