ラノベ書きしもの日記

ワナビの日記

ここではない少女こそがフィクションで、目を焼いて放さないフィクションこそ未来 映画感想『サマー/タイム/トラベラー(新城カズマ)』※ネタバレ

 新城カズマ著、早川文庫2005年刊行のSF小説サマー/タイム/トラベラー』を読みました。

 

 地方都市・辺里市に暮らす卓人、響子、コージン、涼、そして悠有の高校生五人組は<プロジェクト>と称して集まり、響子をリーダーにして非生産的な研究を繰り返していた。ある日、マラソン大会の最中、悠有が時空間跳躍を行い騒動になる。五人は<時空間跳躍少女開発プロジェクト>を始動し、悠有の持つ不思議な力について実験を開始した。それが一体どんな結末になるかも知らずに。というお話。

 

 以下、結末まで含めてネタバレがあります。

 

 プロジェクトと名乗って非生産的なことだけを目的に活動する彼らが超常現象に遭遇する、というとどうしても2003年にスタートした『涼宮ハルヒシリーズ(谷川流)』を連想するし、地方都市のモラトリアム真っ盛りの高校生が特別な少女と出会って人生の大きな分岐点を迎えるSFとなると2000年連載開始の『イリヤの空、UFOの夏』のことを連想する。もちろん、作中提示される通りタイムトラベルは膨大な数あり、また青春SFも当時の段階で無数にあったわけだけれど。

 

 主人公の停滞感にぶつかり、モラトリアムを持て余し、頭は良くて、軽く見下せるが眩い少女に抱く幻想で自分を保っている様はとてもゼロ年代という感じがして、その痛々しさも含めて愛らしい。そして一人称小説で語り手が愛らしければそれはもう、この小説は傑作ということだ、自分にとって。ここではないどこかへ飛び立つ少女の背中を追うことこそ未来だという、このひねくれ男価値観には当然のことある種のセクシズムはあるし、昔のサブカル男の少女幻想には私も中年になってこのかた鼻白むところはあるのだけれど、それでもやっぱりこれこそがある種の少年にとっての青春であることは間違いないと思うのだ。それはきっと、今の時代にもいるだろう同種の少年たちにとってもそうだと思いたい。

 SFオタク(古いタイプのハードSFしか認めねえというタイプではなく、デューンとかもありなタイプ)の少年で、賢くて、停滞している、となると必然的に一人称の地の文が衒学的で読みにくいものになってしまう。そこで入りにくい人もいるし、衒学的な要素や、やたらめったら出てくるSF小説の用語、キャラ、セリフ、設定に何の意味があるのだといぶかしむ人もいるだろう。けれど、これはそんな風に、頭の中を本でぱんぱんにして「ここではないどこか」を幻視していた少年が、あのラストシーンに到達するための物語なので、無駄に見える膨大な語りは全て必要だ。その無意味さや無駄さや痛さこそが、主人公含め少年たちを構築していく。

 言ってしまえば本作は「書を捨て、町へ出よ」って話で、卵の殻を破れずにいた雛たちがその可能性の翼を広げて進む先を見つける物語だ。

 各々が各々の理由で悠有を支えているつもりでその実、彼らは不安定な自分の軸を支えるために悠有を使っていた。彼女だけが一人、未来を見ていた。だから少女こそ未来へ飛び立つ力を手に入れたのだと思う。

 最後、メインヒロインのように描かれていた悠有は主人公のもとを離れ永遠に離れ続けていく。それがいい。幸せなキスをして終了、みたいな終わりを選ばないゼロ年代的なヒネクレと、そして誠実さがある。

 長い停滞が続く本作が、少女の旅立ちの予感を機についに崩壊して、そして導かれるラストの、悠有が卓人にもたらしたささやかな変化こそが青春のひとつの本質だと思う。そしてそれを導く「未来を前提として行動した時点で現在は変動する=現在現時点にいながらタイムトラベルは可能」という、言葉のトリックで作られるSFは、このヒネた少年の語りを借りるヒネた小説にてらいなく真っすぐに未来への希望を語らせるために機能を発揮する。紛れもなくSFでなければできない青春で、青春小説でなければ機能しないSFギミックだ。つまり、素晴らしい青春SFの傑作だということ。
 未来に存在するモノを思い描くとき、その未来はフィクションだが、目を焼くその虚構に向けて、ここではないどこかへ向けて進ませる現在はすでに変容している。未来は虚構で、虚構は虚構ゆえに意味を持つ。

 いい小説を読んだ。

 これ、今っぽくアレンジしたら絶対売れるな。