ラノベ書きしもの日記

ワナビの日記

青臭く美しく痛々しい恋と、根性論 映画感想『アリスとテレスのまぼろし工場』※ネタバレあり

 岡田麿里監督第二弾アニメ映画。制作はMAPPA

 岡田麿里が好きな人は絶対好きな映画で、あとたぶんここ二作くらいの新海誠作品が好きな人も好きなんじゃないかと思いました。それと、美術がめっちゃ綺麗なので劇場でみる甲斐があります。芝居もいい。映画館で観ましょう。

 私の感想としては、恋の描写は素晴らしく、芝居も素晴らしく、美術も素晴らしく、泣けるところもあるが、描かれる世界への解決が全く腑に落ちないというところでした。あと予告編は内容出しすぎでは、あれだけ世界観と誰の身に何が起きるのかと彼女と彼女の対決とって全部出しちゃうと、物語の前半部分の鑑賞に悪影響では。

 

 以下、ネタバレありです。ネタバレを観ないで鑑賞した方が絶対にいいタイプの作品なので、未見の方はご注意ください。

 なお、イオンシネマの懸賞で当たった試写で観た感想です。

 

 

 

 

 製鉄所を中心に拡がる田舎町。製鉄所で起きた爆発事故を契機に町全体が謎のひび割れに覆われ、町からの出入りはできず、季節は冬から進まなくなる。そして、人が老いることはなくなり、いつか世界が元に戻った時のために人々は事故が起きた際の自分のまま暮らすことを決める。変化を奪われ停滞した世界で生きる少年・正宗はある日、クラスメートの少女・睦実に呼び出され、入ることを禁止された製鉄所へ導かれる。そこには不思議な少女が閉じ込められていて……

 という、ファンタジーな作品。

 

 まず世界と物語のラストまでのネタバレこみの話と、全く腑に落ちなかった物語上の問題への答えの提示について書く。

 停滞に覆われた世界。外に出られないというのはコロナ禍のメタファーでもあり、同時に環境問題にせよ少子化にせよポイント・オブ・ノーリターンを越えて良くなりそうにない社会で直面する閉塞感のメタファーである。あまりにもド直球な姿勢は、監督の真摯な態度に思える。

 その閉ざされた世界では誰もが成長を許されない。永遠に続く冬の中で、大人も子供も停滞を求められる。住人はずっと以前のままの自分でいることを求められ、定期的に自分が何者だったかを確認して変わらないように努める。子供は大人になれないまま学校に通い続け、妊婦は子供を産むことができない。そこでは恋することも危険で、変化から人々は逃げ続けなければならない。停滞の世界で諦めを抱えて、子供も大人も何者にもならない時間をやり過ごしている。

 正宗は製鉄所で働く父がある日消え、伯父と母と祖父と暮らしている。絵を描くことが好きだが、停滞する世界に将来を諦め、恋心すら抑え込んでいる。彼がクラスメートの睦実と出会い、彼女が製鉄所に閉じ込められている少女・五実へ正宗を導くことで物語が動き出す。五実は停滞した街の外からこの世界へ来た子供だった。

 実は世界は製鉄所爆発時点で分岐していて、閉ざされた町の外では時間が進む普通の世界があった。そこでは正宗も睦実も普通に暮らしていて、五実は二人の子供としてそちらの世界で生きている子供だったが、あるきっかけで町へ迷い込んで囚われていた。劇中で10年とかワードができていた気がするので、このあたりの時間の整合性はよくわからなかった。

 ここでこの世界は「囚われた田舎」「その外の世界」の二つがあり、外は時間が普通に進んでいる=五実の家族は子供を失ったまま生きている、ということが命題になる。そこから、無限に停滞しているようにみえる世界であっても、少しずつ何かが変わっていること、ずっと続けてきたことは自分の中で何かを形作っていることを主人公が気づき状況が変わり始める。つまり、昔からよくある「停滞した世界のメタファーとしてループ世界」ではなく、この世界は変わらない風景の中で着実に時間が進んでいたということで、主人公たちは子供の外見ではあるが子供ではない。14歳でループに入った彼らは二十代半ばあたりだ。

 終盤、正宗は憤りと後悔を背負って前へ踏み出す。この様はドラマチックで青い青春に見えるが、前述のとおり別に彼らは子供ではない。これはコロナ禍で色々なイベントをスキップされて、ぽんと時間が飛んだように感じる現代と重なる部分があるのだけれど、しかしそれは思春期の青さなのかというとどうなんだろう。わからん。時間は進んでいるから青春もののように見せかけて、実はこの世界は「停滞した世界の中で生きて子供のまま成長した大人たち」である主人公が、ラジオの向こうにいる「若者」へ「停滞した世界でも生きる場所を探せ、痛いけど、でもそれでも進んでいくんだ」と説教する映画になっているような気がする。

 時間が経過して、生きた時間的には政宗たちも大人の入り口くらいの年齢ではあるわけで、となるとラジオの向こうへ叫ぶ姿は思春期の少年少女が輝く姿ではなく、主人公の姿を借りて大人が世界の外=現実の若者へ叫ぶメッセージに思える。つまり青春ものではなく、青春をもがく若者の映画でもない、時間を通り過ぎてしまった大人たちが子供への叫ぶ映画なのじゃないかと思えてしまう、となると混乱する。

 しかもそのメッセージは結構な根性論。停滞しているように見えるけれど時間は過ぎているから後悔せずにがんばれ、っていうのはかなり大人の意見ではないかと思う。最後にあの世界も動き出すけれど、あの世界が動き出すのってハッピーな変化なのかもよくわからない(そもそもあの世界でなんで子供生まれることができたの? その変化を許容するなら消えた人たち報われないにもほどがないか)。そもそもそういうふいに訪れるある種好都合な奇跡を信じられないから、現実の人たちは閉塞感の中で人生に倦んでいくのじゃないのだろうか。意外とみんなそうでもないのだろうか。

 どうしようもなさそうな未来の中で次世代はどうするのか、というのは最近の映画監督の流行りのテーマ。流行りというか、問題が大きすぎて避けて通れないテーマで、しかしどの映画も答えは出せなくて(ないから)、その中でそれでもこうしてほしい、こうあってほしいという監督の願いが描かれる。

 宮崎駿の「君たちはどう生きるか」では、子供たちに大人の物語を引き継がず子供は子供の世界を選べばいいのだと願いを描いた。新海誠の「天気の子」は、セカイ系のような「世界か彼女か」の問いを環境変動で悪化する社会を引き継ぐ子供に見立てて、「そんな問いはいいからキミは彼女の手を取って生きていい」とエールを送った。

 もっと前で行くと押井守の「スカイ・クロラ」が本作から想起される。この映画では、何度でも生き返る人造人間キルドレという永遠の子供が、永遠に戦争に駆り出されては死に生き返る地獄の中で、それでも繰り返される日々の中に何かを見出す瞬間を描いている。この映画は、確かに世界は同じことの繰り返しで生きているのかどうかもわからないような毎日が続くけれど、それでもそんな人間にも同じ日々の中に変化を見出すことは可能だという希望がある。

 とすると本作はどうなんだろうかというと、私としてはちょっとなんだかなーと腑に落ちなくて、結局「もっと若いころ色々やっときゃよかったよ」という、大人がよくいうアレにしかなっていない気がする。私はいい歳のおじさんなので、若い人がどう受け止めるかわからないのだけれど、しかし中年として観るとこの映画の理屈は思春期の青くてめんどくさいけれどまっすぐな主張みたいなものではなく、大人の理屈に思える。

 というか、監督が得意な性欲まで含めて見事に生々しくも青く痛く美しく描く青春や恋愛の描き方と、この世界観と、そしてこのテーマの食い合わせが悪いんじゃなかろうかと思う。恋や愛は痛い→生きることは痛い→停滞した世界で痛みを取ってでも生きる、という論理の結節が、私にはかみ合っているようには思えなかった。個人対個人と個人対社会では問題の根っこと、問題への向き合い方をイコールにするのはけっこう論理がキツくて、それを自覚しているのか本作はそこの論理を接続するために世界の停滞を「滅びる町を一番楽しかった時間にとどめたかった神様のせい」という、ある種の個人に要因を持たせることで個人対個人に置き換えている。ここが私にとって非常に欺瞞に思えて、もしも社会における閉塞感やしんどさを与える要因が誰かにとっての善意だとしても、それは何の慰めにもならないし許されることでもないだろう。殴られたけど楽しそうだったから痛みを受け入れて生きていきます、みたいな謎の理屈だ。少なくとももしもこれが本当に今の社会の若者に向けて作っているのだとしたら、とても大人な、大人による社会を建前のベールで覆った物語に思える。恋愛は生々しく描くのに社会はそう描くのか? とうのは疑問だ。監督のインタビューとか未見なので、実社会と実在若者と作品の接続なんて図ってねえよという話だったら、大変申し訳ないのだけれど。

 

 

 一方で恋については、非常に魅力的で素晴らしかった。この作家は天才だなーとしみじみ。岡田麿里の作家性は全開であり、五実・睦実と正宗の三角関係のいい意味での気色悪さは他の作家には出せない。特に大きな物語の転換点になる、睦実と正宗のキスを見て五実がいじけるというところはかなりきつくて、親のセックスをみて子供がショックを受けるみたいなもんで、こういうの描くのは(そしてそれがある程度の広範囲に刺さる描き方ができるのは)この人しかいない。また、正宗が五実と仲良くしている姿を見て睦実が切れるところの「結局オスかよ」とか、作家性の高いセリフだと思う。

 さらにその作家性が際立つのはラスト。五実を元の世界に返そうと奮闘する中、正宗に恋する五実と対峙する睦実の出す答え。同じ男に恋する少女同士のこんな結論観たことない。すげえ。これはもう完全なる岡田麿里であり、監督のファンは必見必聴。

 この男女が抱える明かりも暗がりも快感も苦痛も全部詰めて鮮やかに光らせる感情表現、ストーリー、そして監督としてのそれの演出力、まさに右に出るもののいない青春作家の素晴らしさが満ち満ちている。

 

 また、大人の大人足りえないスタンスを描くところも珍しい。正宗の叔父・時宗の描き方は結構変わったもので、正宗を支える大人として描かれるも、最後には好きな女(正宗の母、つまり実兄の妻。ちなみに実兄は死んだ)のために世界を維持しようと奮闘する。しかしその奮闘は、五実を元の世界に戻そうとする正宗の行動を阻害するもので、こんな大人の描き方は非常に珍しい。大人が個人の恋愛のために子供(亡き実兄の忘れ形見で、愛する女性の子供だ)を邪魔するというのはかなり変わっている。物語上父が障害になることはよくあるが、その場合は双方の対決によって父を超えることがオブセッションになる。しかし本作はそんなことではなく、物語の結末に困難を起こすためにおっさんが性愛爆発させて主人公をやりはじめる。

 地元の神社の社家である佐上も変わった描き方で、謎のオリジナル信仰をもとに五実を世界に閉じ込める狂った確信犯で救いようのない狂人。彼は本当に、なんか愛されも敬われもしない子供のような人で、正宗の父が好き(明言されないがたぶんゲイ)で無邪気にその思い出にもひたっているのだが、その父が消えたことに責任感はないし、ずっと自分がどう思われていたかだけ気にしているという、驚異的に独善的で他者を慮る機能がないあんまりアニメで観たことがないやべえ人だ。正宗の父の消失と、五実がこの世界に監禁されたのはこいつが元凶なのだが、彼は全く罰されない。女性蔑視で承認欲求が高すぎ、女児監禁を悪いとも思えない正真正銘の狂った男であり、紛れもなくメインキャラ三名の苦しみの直接原因になった大人なのだが大した対決もないし、ちょっとした糾弾で終わる。時宗なんて佐上を「こんな世界になっても楽しもうとしていた」と褒めたりする(兄のことは知らなくても幼女監禁は知ってんだろお前、と思う)。私としてはこんな、ミストの宗教ババアみたいなのが無批判に終わるのは大変ムカつく。というか、これを生きる姿勢の一つとして許容するのは、人間賛歌でも優しさでもない。社会がどうでも仕方がない、自分の人生を楽しもう! っていう論理自体結構問題があるのだが、それによってこんなものまで許すってのはかなり狂った論理じゃないか?

 確かに物語のテーマは「こんな世界だけど痛みと共に生きてくっきゃない」だからそれで言えば佐上の姿勢はあっているのだが、しかしテーマとあっているからって児童監禁狂人を主人公の叔父さんが「へへっ」って感じで微笑みながら褒めて終わるのは、監督の考える生き方ってとんでもなく変わっていると思う。マッチョすぎないか。

 なんというかこの時宗と佐上については、物語を動かすために二人がかなり都合よく動くし、結論もかなりどうかしているし、めちゃくちゃ釈然としない。しかしこのヘンテコな大人への甘さを隠さず真っすぐ描いているのも含めて、作家性が非常に強く出ていて、作り手が邪魔されずにむき出しのものを見せてくれているようで楽しいというのもまた事実。

 

 美術が大変よく、冬で止まった世界の冷たい空気と聳え立つ製鉄所の景色は本当に素晴らしい。うっすらと雪の積もった駐車場に倒れる二人の絵なんてもうたまらないくらい美しい。これを大画面で見るだけでも劇場に行く価値あり。ちなみに外の世界に拡がる夏が見えるところはめちゃくちゃ新海誠みたいで、アニメにおける夏ってもう新海誠に乗っ取られたなと思った。

 声優もみんな素晴らしい。榎木淳弥ってめっちゃ上手いタレント吹替みたいな質感があるので、こういう劇場アニメ映画にはぴったりだと思う。上田麗奈の生っぽい芝居は当然いい、こういう役は今の声優で随一。そして何より久野美咲の芝居である。とんでもない。この人でなければ、ラストの睦実と五実の別れの場面は演じることができようはずがなく、紛れもなくこの映画はこの役者の映画だと思う。

 

 長々書いたように理屈は全く腑に落ちない映画だったのだけれど、圧巻の作画と素晴らしい芝居、何よりここまで作家性の高いものをこのクオリティで観られるというのは腑に落ちなくても(そもそも思想が合わなくたって映画鑑賞は楽しいわけだし)楽しい経験だった。劇場で必見の映画。