ラノベ書きしもの日記

ワナビの日記

書くしかない。 劇団肋骨蜜柑同好会『象牙の塔(がんばったがダメ)』 ※ネタバレ

 劇団肋骨蜜柑同好会の公演『象牙の塔(がんばったがダメ)』を観たので感想を書きます。『塔をたてる』という二本立て公演の一本。残念ながらもう一本は観られず。

 

 1947年、後に田瓶市と呼ばれる土地。デビュー作の上梓以降執筆が止まっている作家・清田洞翁。彼がなぜここに暮らし、小説を書くことをやめ一人だらだらと暮らすことを選んだのか。それが浮き上がっていく60分の短いお話。

 

 素晴らしかった。座席のチョイスミスで役者が重なってしまって顔が見えないタイミングが多かったのだけれど、それでもどの役者もよかったなあ。

 主演は懊悩する疲れ果てた作家を好演してどっしり一時間舞台に居続ける力があったし、我らがメタ探偵・平田は演じる役者さんの長身と狭い舞台とが相まってラストの長セリフは客席まで丸ごと飲み干すような威容が見えて痺れた。平田って永遠の読者だから、小説家にはなれないんだろうなあ。1947年と言えばロズウェル事件の年で、平田が何か呼んだんじゃないかな、と妄想していた。

 フジタタイセイさんのセリフの独特のテンポ感で紡がれる長セリフが好きで、毎度観に行っている気がする。長いセリフで強引にでも希望を見せようとする誠実さがとてもよい。マジでどうしようもない世界だとしてもマシにしてやるという姿勢が見える作品だ。

 あと大槻ケンヂ好きなので、その引用があるだけで好感を持ってしまう部分もある。

 肋骨蜜柑同好会の作品は本作込みで8つくらい観たと思うのだけれど、本作が一番突き刺さった。

 それは本作が極めて個人的な私の状況に重なってしまったからだ。

 自分を開陳するのは恥ずかしいのだけれど、私は長いことライトノベルを書いて新人賞に送って落ちる、ということを繰り返している。何年か前にある賞の最終選考に落ちてぽっきり心が折れ、折れたままだらだら書いてはさらに落ち、というのを繰り返してここしばらくは全くぱたりと書けなくなっている現状。で、その時によく考えていたのが、落選必至でどこにも届かない、誰のためにもなっていない物語を書く意味があるのか、ということで、それをある種の言い訳と現実逃避として筆を折っていた。それと全く同じ書かない(厳密には清田は書いていたわけだけど)言い訳が劇中出てきてビビッてしまった。同じようなことを考えて書かなくなる人間は世界中にたくさんいるのだろうけれど、私が目の前でその言葉を聞いたのはこれが初めてだった。

 そしてその先へ、立ち上がる姿を観られたこの物語は、本当に今ここの、書けない、そのくせ全てを放り投げることもできない、どんくさくめんどうくさくどうにもならん自分にとって、こんなに自分事として突き刺さる物語があるのだろうかと客席で戸惑うほど直撃の物語だった。

 では今、私は小説を書いているかというと書いてはいない。まだだらだらと言い訳が浮かんでは消え、言い訳は消えるときに精神のどこかを裂いていく。言い訳はいくらでもある。そもそも私は清田と違ってデビューしてないし、家族のように待っている相手もいないし、発破かける友人もいなけりゃ犬もいない。つまりは社会性も作家としても、間違いなく清田より数段頑張ってない。がんばってないなあ。

 ダメだ。でもたぶん、これは書いていくしかないのだと思う。少なくとも、書こうとはし続けなければならない。この物語を一方的に心の友にして、立ちあがった彼の背に引き寄せられるように立ち上がれればなあ、と。どうにか立てんものだろうか。