ラノベ書きしもの日記

ワナビの日記

凡庸な悪を跋扈させるのは社会 映画感想『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』

 『花殺し月の殺人』の映画化。スコセッシ監督最新作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を観ました。以下、ネタバレあり。

 

 1920年代、白人に追いやられてたどり着いたオクラホマ居留地から石油が出て世界一裕福になったオセージ族。オクラホマにはオセージのもつ金を求め白人がアメリカ中から押し寄せていた。戦地帰りの男、アーネストもまた叔父ヘイルを頼りオクラホマへ訪れる。ヘイルは長くオセージと共に暮らし信頼を得る白人で、広大な農場を持つ地元の顔役だった。アーネストはオセージ族の女性モリーと親しくなる。それを切欠にアーネストは、そのオセージの巨万の富に寄生するヘイルの強欲な正体を知ることになり、彼に導かれるままに凄惨な連続殺人にかかわっていく。

 

 206分の長尺だけれど、飽きないしダレない。傑作。無駄をそぎ落としたスリムな脚本で、これでこの長尺ならそれはもう原作が長すぎるって話で、もう長さについては仕方がないと思う。長い映画でなければできない面白さであるし。そして映画館で観る価値のある、映像と音の見事さもある。

 ディカプリオ(アーネスト)もデニーロ(ヘイル)も素晴らしいし、リリー・グラッドストーン(モリー)もめちゃくちゃ芝居がいい。この三人の演技の力が、長い物語をけん引する腕力を十分に発揮して映画を飽きさせない。

 

 ヘイルはキャラ造形がいい。オセージからの信頼を集め、白人たちからは顔役として知られ、篤志家として寄付や相談に乗る一方で、裏ではオセージの金を奪うために殺しを行い、保険金詐欺もする悪党。子供のころから知るオセージの女性に毒を盛らせ衰弱していく様に良心の呵責も持たず、堂々と「彼らは賢くいい人だが、黒人と同じくインディアンもそのうち勝手に消える」と語る人種差別主義者。これをサイコパスな異常者とか悪のカリスマとして描いていないバランス感覚がよくて、非凡で凡庸な悪党として描いている。

 ヘイルの悪事はかなり雑なのもいい。殺人は「前から撃てば自殺にみえる」くらい雑だし、保険金詐欺もかなり杜撰。証拠隠滅も雑で、失敗も多い。彼は人に自分をキングと呼ばせ、その名に恥じない権勢を持って見えるが、結局それは地元の小さな丘の王に過ぎないことが中盤でわかる。彼も実のところアーネストと同じ凡庸な悪党だった。

 ではなぜそんな凡庸な悪党がこれだけの連続殺人をできたかと言えば、それは彼が白人で、相手がオセージだったからだ。社会制度として差別、不審死も捜査されないという差別構造が彼をのさばらせた。社会制度が彼に権勢を与え、オイルマネーに群がる白人たちがその権威と共にインディアンの命と金を奪い続けた。終盤、アーネストの裏切りを予期した彼らが集って裁判の証言をやめさせようとするシーンがある。暗い部屋に悪党大集合、石油会社・弁護士・地元の名士たち。こういった共同体・社会制度こそが、この事件の本当の犯人だ。このすがりつく人々の醜悪さが、この作品のキモだと思う。社会が正当性を与えれば人間の欲望は容易く集団として暴走し、その凡庸な悪は集えばこんな醜悪な事件を起こしてしまう。アメリカ以外でも、白人以外でも、金の集まるところに差別と暴力は生まれる。

 

 アーネストとモリー夫婦のキャラ造形も見事。

 とにかくアーネストがめっちゃバカ。登場から即バカであることを明示しており、列車から降りてヘイルの使いに会わないといけないのに目の前の喧嘩に気を取られてそっちに行っちゃったり、運転手としてモリーを送る仕事をしないといけないのにカーレースが始まると賭けてもないのにそっちに気を取られて仕事を忘れる。犯罪も人の指示がないとできないし、目上に「あっちが悪い」と言われれば裁判の証言すら翻す。しかもそれを繰り返すうちに、自分の認知すら自分で上書きしているように見える。

 悪事に加担し、並行して自分でも強盗とかやっているのに、妻は愛しているし子供は愛している。自分がかかわっている殺人の現場で死体をみてショックを受けたり、自分で毒を盛っておいてモリーが衰弱すると落ち込む。とにかく愚かで空っぽ、空虚な男を、見事に演じるディカプリオの凄さ。

 バカすぎて最初は普通に指示していたヘイルが中盤から指示を繰り返し説明したり、曖昧な返事をすると叱ったりする様は笑えないギャグっぽい。

 モリーも芝居が凄くて、セリフは少なく物語のほとんどで衰弱していく伏せた姿であるにも関わらず、たたずまいや表情でその複雑な人物像が表現されている。アーネストは逆の、知的で物静か、でも糖尿なのに甘いもの食べちゃったりする人間味もある。彼女ほど賢い人間がアーネストに騙されるのはなぜかといえば、それは彼女の独白(この映画で長いセリフは少ない)にあって、社会そのものが害意を向ける中で生きることの過酷さが見える。そんな彼女が復活してから下す決断は、この凄惨な映画の結末をそれにすることで、一つの救いというか、膨大な死のあとにある高潔さにほれぼれする。

 とともに「インスリンだよ」というしかない凡庸な悪のその空虚さに三時間半分の疲れがいっきに訪れる救いのない映画のラスト、名シーン。そのそばにいる捜査官が「ダメだこりゃ」って顔しているのもまた、いい。

 誰かに決断をゆだねるしかない人間。善悪の価値すら人に決めてもらい、自分の快楽だけは持ち、しかし同時にその結果を自分事とする当たり前の責任すら取れない。という人物は衆愚として社会にそれなりにいて、彼らは時に差別に先導されて特定の人種を殺し、狂信者となって宗派に反する人を殺す。インフルエンサーに妄信してネットで粘着して訴えられた人がうろたえるのもアーネスト的な生き方だからだろうなと、Twitterでよくみるとタイプだとしみじみ思う。そしてそんな風に「こういうバカよく見るな。私は違うけど」みたいに思っていると、エンドロールで蠅の羽音が響く。これは歴史劇で、アーネストは愚かだが、この社会には同じ問題が地続きで放置されていて、そこから引き戻れるかどうかは、この羽音を聞いた我々が気づいてやめられるかどうかだ。

 最後の最後に実はこの映画は実在したFBI宣伝用ラジオドラマの一幕だったことがわかり、番組を〆る役としてスコセッシ監督本人が出てくるのは「この差別、白人の罪についての物語は自分の責任下にある」という宣言に思えた。

 いい映画だった。