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虚像は残り、実像は堕ちる。 映画感想『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』※ネタバレ

 ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを観たので感想。ネタバレありです。日本公開前から大いに叩かれていた大不評映画ですが、私はとても好きでした。

 

 あらすじ:駅で会社員三名を射殺。さらに同僚を刺殺した後、生放送中に大物コメディアンを殺害。社会に対する過激な反抗者ジョーカーとして偶像となったアーサーは閉鎖病棟に収監され、裁判を待つ身だった。2年間の獄中生活でかつての気力を失ったアーサーだったが、信奉者である女性・リーとの出会いを通しジョーカーの狂気を取り戻していく。そして裁判が始まり……

 

 冒頭のアニメの通りの映画で、最初に全てネタバレして始まる。かっこよすぎて誤読されまくり、映画の外でまで英雄化したジョーカー。だがジョーカーコスを纏う彼らがやることは、社会への怒りの表出ではなく、弱い立場への加害ばかりだ。大物コメディアンを撃ちにいくやつも、差別的な同僚をジョーカーコスで殴るやつもいない。無関係の女性を刺し、差別の拡大で稼ぎ、どう考えても殺される側の権力者がTシャツにして着る。そんな薄ら寒い状況ができあがったのが、ジョーカー以降の社会だ。そんなふうに映画のルックを借り、アイコンにするだけのお滑りド痛継承者たちの誕生と、それがどのように祀り上げられた当人を置き去りにするのかをまざまざと描き見せつけるのが本作だ。宗教は教祖を置き去りにして、分派が無尽蔵にできていく。そんな話だ。

 

 一作目で地に伏したジョーカーが、本作の最後にもう一度地に伏して終わる。この構造の通りで、本作は一作目と向き合って前作のテーマや観客の反応を踏まえて幕を下ろすために作り上げた正統派な続編だ。ジョーカーという“誤読”によって祀り上げられたヒーロー。その虚像が当人を追い抜いてどこかへ飛び立って、実像は倒れ伏すだけという無惨な作品。前作で“助けた”ゲイリーから糾弾され、ついにジョーカーの神話が解体され、虚像が解けてしまうあのシーンの無惨さにはあまりに痛くてつらかった。そして虚像を失ったアーサーは消え、ジョーカーという偶像だけが残る。無惨だと思うのは、本作でこれだけジョーカーなるものの誤読を解き解体しても、その誤読者は本作を叩くだけでなにも気づかないだろうなというのがこの映画のオチだからだ。

 ジョーカーの信奉者はジョーカーの本質を見ようとはせず、そのくせ知った気にはなって、向き合わずに好き勝手気持ちよく歌うだけ。“対話”という優しさや理解の大前提を放り出してただ歌うだけの群衆は、ついにはアーサーという個人すら不要になってしまう。壁に映る像だけが残り、倒れたアーサーが映る閉じたラストは、本シリーズにふさわしい見事な結末だった。

 批判が多いが、私としては真っ向から第一作目と向き合った、ごくごくまっとうな2作目だと思う。例えば今年の映画だとフュリオサみたいなものだと思う。

 

 それと他の方の感想で、前作の虚実曖昧なのがよかったのに、っていうのあったけれど、そんな作品が前提なので続編で「全部ホント」と言われたら素直に「ホントなんだ!」ってなるのは不思議というか、みんななんでそんなに素直なんだろうか。あのアーサーから紐づけるなら、今作だってどこまでホントかわからない。
あの爆発から先は嘘かもしれないし、実はアーサーは収監後早めにあのラストのシーンになって倒れ伏しそんな状態で空想したのが本作かもしれない。もっと言えば冒頭のアニメよろしく、ジョーカーが語る無数のオリジンを語る観客を冷めさせる邪悪なジョークなのかもしれない。